常念寺について
常念寺は伏見区淀の水垂地区に古くから所在する寺院です。明治前期の水垂村には郷社の與杼(淀姫)神社と無格の綱敷天満宮社がありました(『紀伊郡神社明細帳』)。また、寺として浄土宗の常念寺と清浄庵、西山派の阿弥陀寺、そして真言宗の大徳寺の四ヶ寺が記載さています。
江戸時代の中頃に記された常念寺の古文書『當寺歴代寄附建立并日月牌記』の冒頭には、十一面観音像の縁起が記されています。
ご本尊や創建の縁起に先立って観音さまの縁起が書かれているのは観音さまが常念寺の「根本」であり、大切な仏さまとされていたためと思われ、また、山号も観音山と記されています。
常念寺は慶長10年(1605)第一世・傳譽上人(開山上人)が、当時「西福寺」と呼ばれていた観音堂の本尊・檀家を移し、浄土宗知恩院の末寺として常念寺を創建されたことが書かれており、現在の常念寺の開基であります。
(『過去霊名記』)
第二世・真譽上人元和7年(1621)(中興上人、お寺の建て替えや修復に尽力された僧侶)によって寺院伽藍の整備が行われ、現在の御本尊の阿弥陀さまをお迎えしたことを、第七世中興高譽上人代に長老たちの話を聞いて書き取ったものだと但し書きがあります。
第四世・中興賢譽上人延宝3年(1672)住職となり常念寺再興に大変な努力をされ、伽藍の修復整備をされました。
明治期の『紀伊郡寺院明細帳』によると、常念寺は619坪の境内地を有し、本堂、観音堂、庫裏・土蔵などがありました。当時の住職は第十九世・友譽上人、檀家数は315軒にのぼり、当時の水垂村では最も規模の大きな寺院で、大下津村の地福寺は当寺の末寺にあたります。
水垂は桂川右岸の堤防上に位置するため、しばしば水害を受けてきました。とくに、明治18年には3カ所で合わせて約150メートルも破堤し、27戸が流失したほどでした。住民は常念寺へ避難したといいます。この災害復興と民家の再建に尽力した勝山弥兵の顕彰碑が墓地に建てられています。このような水禍の根絶を目的に内務省が明治30年代に淀川改良工事の一環として桂川の拡幅工事を実施しました。この際の引提事業により、大下津村とともに全村が新提防上に移転を余儀なくされました。
本寺にある棟札によると、3,636円余の移転料をえて、明治33年(1900)1月から作業を始め、約1年4ヶ月後の34年5月19日に上棟式を挙行しています。この頃には半分まで減った本村も新用地に移転を終えたことと推定されます。
それから約100年、再び桂川の水害危険度を下げるための拡幅工事が実施され、水垂は再び全面移転に至りました。
当寺は明治以来の古い建物であったため、1995年の兵庫県南部地震による被害を受け、建て替えの時期を迎える状況でした。
しかし、仏さまのご縁により、平成22年5月(2010)に現在の地へ落慶するに至りました。
川とともに生き闘ってきた水垂のご先祖様のご苦労を偲び、安全で快適な新しいまちづくりが一日も早く完成することを願ってやみません。
平成の伽藍移転工事にあたっては、1400年の歴史のある金剛組の設計・施工で完成することができました。
また、航空写真等もご提供をいただきました。
注:神社および寺院明細帳は京都府立総合資料館所蔵の物を利用しました。
常念寺住職 第二十五世深譽廣賢
江戸時代の中頃に記された常念寺の古文書『當寺歴代寄附建立并日月牌記』によると、常念寺は慶長10年(1605)に傳譽上人が、当時「西福寺」と呼ばれていた観音堂の本尊・檀家を移し、創建したと書かれています。
常念寺創建当初のご本尊さまは、西福寺の本尊をそのまま移したものでした。お姿は「唐仏坐像弥陀」「御長六寸」、高さ18センチメートルの中国風の阿弥陀さまの坐像であったようです。西福寺=観音堂だとすれば本尊は観音さんのはずでは?と思ってしまいますが・・・現在と同様、西福寺の境内に観音堂があるという感じだったのでしょう。
現在の御本尊さまは立像ですので、この坐像の阿弥陀さまとは別のお像になります。では現在の御本尊さまは、というと、こんなお話しが記録されています。
二代目住職の真譽上人の時代、一度お祀りしたとはいえ18センチのお像では寺の本尊としてあまりにも小さいという話になり、
寛永9年(1632)7月15日の念仏講の席上で檀家が相談し、新しい仏像を作ろう、という事になりました。毎月掛銭(積立て)をしよう、
などと話していると、ひとりの道心者(お坊さん未満の修行者)が菰包みを背負って現れ、「もしや仏像をご所望では?」と聞いてきました。
檀家たちが、いやそういう相談をしていたところだ、と返すと、道心者は「私は今、阿弥陀の霊像を持っている、ご寄進致しましょう」と、言って菰より仏像を取りだしました。
長老や真譽上人が拝んでみると、とても素晴らしいお顔をされた阿弥陀さまのお像でした。一同感動して早速貰い受け、以後このお像を常念寺の本尊としたそうです。
現在の御本尊であると考えられますが、このお話はかなり後の時代の七代目の住職が長老たちのお話しを聞いて書き取ったものだと但し書きがあり、当時から伝説として捉えられていたようです。しかしながら、なかなか不思議で面白いお話です。
さて、改めて本尊さんを拝ませていただきますと、表面の漆塗りのために細部はわかりませんが、その特徴から平安時代後期、12世紀頃に作られたお像と考えられます。
ちょうど法然さんが活躍した頃になります。まん丸い穏やかで理知的なお顔、絵に描いたような浅い衣の襞、正面から拝むことを主に考えた薄い奥行き、真っ直ぐな額の生え際など、11世紀に活躍した定朝が確立したいわゆる定朝様の特徴が見て取れます。
しかし少し形式化した感じでもあり、12世紀に入ってからの制作になると考えられます。運慶・快慶が活躍し写実性が高く肉感的な表現が出てくる時代ではありますが、定朝様の懐古的なお像も沢山造られていた時代です。前の時代の作風を堅実に伝えた工房で制作されたのでしょう。
不思議なご縁で江戸時代の初めに常念寺にやってきた本尊さん。造られてから800年以上の歳月、数え切れない数の人々が拝み、願いを捧げた仏さまなのでしょう。
※古文書『當寺歴代寄附建立并日月牌記』 解説:松田道観氏(清浄華院史料編纂室研究員)
現在仏像調査中のため、調査完了後に掲載します。